ゴール前に立ちはだかる、190cmを超える大きな背中。

日本代表の守護神、鈴木彩艶選手です。

2026年の北中米ワールドカップでも、日本のゴールを守る要として期待されている選手ですよね。

そんな彼を見ていて、ふと思ったことはありませんか。

「この圧倒的な体、いったいどんな両親から生まれたんだろう」と。

彼のお父さんは、ガーナにルーツを持つ方

そして、あの堂々としたプレーと謙虚な人柄を育てたのは、日本人のお母さんによる「ある教育」だったのです。

私はこの背景を知ったとき、思わず唸ってしまいました。

今回は、鈴木選手の父親と母親がどんな人なのか、そして彼の強さの秘密である「自立教育」について、できるだけわかりやすくお話ししていきますね。

ガーナ出身の父親の素顔とは?

まず気になるのが、お父さんのことですよね。

ところが、ここで一つお伝えしておかなければなりません。

鈴木選手の父親について公開されている情報は、意外と少ないのが実情です。

名前も、職業も、今どこで何をしているのかも、ほとんど表に出ていません。

分かっているのは、西アフリカのガーナという国の出身、あるいはガーナにルーツを持つ方だということくらいでしょうか。

スポーツ選手のご家族はプライバシーが守られるのが普通ですから、これはこれで自然なことなのかもしれません。

とはいえ、この「ガーナ出身」というキーワードだけでも、見えてくるものがあります。

ガーナといえば、アフリカでも指折りのサッカー強豪国

バネのある身体能力を持った選手を、世界中に送り出してきた国なんです。

鈴木選手の身長は、およそ190〜192cm級。

そこに90キロを優に超えるがっしりした体つきが加わるのですから、その迫力は相当なものではないでしょうか。

このスケールの大きな体格こそ、ガーナの血筋が大きな土台になっていると考えられます。

ゴールキーパーというのは、一瞬の反応と、跳ぶ力と、体のぶつかり合いがものを言うポジション。

長い手足をめいっぱい伸ばして、ゴールの隅へ飛ぶシュートをはじき返す姿は、まさに「フィジカルモンスター」です。

こうした体の強さのルーツに、お父さんから受け継いだものがあるのは、まず間違いないでしょう。

そしてもう一つ、見逃せないものがあります。

父親のルーツを感じさせるのが、「彩艶(ザイオン)」という名前なんですね。

このザイオンという響き、もともとは聖書に出てくる聖なる山「シオン山」に由来していると言われています。

ガーナは国民の7割ほどがキリスト教徒という国。

その文化的な香りが、名前にそっと映り込んでいるのでしょうね。

ただ、本人は「母親が名付けてくれた」と話していて、あの美しい漢字を当てたのは日本人のお母さんだった可能性が高いのです。

父親のルーツと、母親の感性が、一つの名前にぎゅっと詰まっている。

なんだか素敵な話だと思いませんか。

最後にもう一つ、面白い事実をご紹介します。

これだけ多文化なルーツを持ちながら、鈴木選手のアイデンティティはまったくブレていません。

過去にはガーナ代表からも関心が寄せられたと言われていますが、彼が選んだのは日本代表でした。

「日本で育ったので、自分は日本人」

このきっぱりとした一言に、彼の芯の太さが表れている気がしてなりません。

母親が徹底した自立教育のルーティン

さて、お父さんが「体の土台」をくれたのだとすれば、鈴木選手の「中身」を育てたのは、まちがいなく日本人のお母さんでした。

サッカーのことは、ほとんど知らなかったというお母さん。

それでも、たった一つだけ、絶対に譲らなかった方針があったんです。

それが「自分のことは自分でやりなさい」という、徹底した自立教育でした。

甘やかさない、でも応援はやめない。

このさじ加減、口で言うほど簡単ではないと思うのですが、いかがでしょう。

そんな絶妙なバランスで育った少年時代を、これから三つのエピソードでのぞいてみましょう。

①小学校高学年からユニフォームは自分で手洗い

鈴木家には、ちょっと厳しめのルールがありました。

練習着やユニフォームの洗濯は、自分でやる。

鈴木選手の場合、小学校4年生くらいから、これがもう当たり前になっていたそうです。

2歳上のお兄さんも同じだったというので、これは家族みんなの決まりごとだったんですね。

すごいのは、その徹底ぶりです。

泥や汗でドロドロのときは、いきなり洗濯機に入れず、まず手洗い。

おまけに、人工芝の細かいゴムの粒がくっついていたら、それを一粒ずつ手でつまみ取っていたというのですから驚きます。

小学生の男の子が黙ってその作業をしている姿を想像すると、たいした根気だなと感心してしまいました。

でも本人は、当時を振り返って「そんなに苦には感じなかった」と、実にあっさりしたものです。

イヤイヤやらされていたわけではなく、暮らしの一部として自然に身についていたのでしょう。

この何でもない習慣が、のちにプロの世界で思わぬ形で生きてくるのですが、その話はもう少しあとのお楽しみにしておきますね。

②周囲が車送迎のなか一人で電車を乗り継ぎ練習へ

二つ目は、練習場や試合会場までの「移動」のお話です。

少年サッカーの現場って、お父さんお母さんの車で送り迎え、というのがよくある光景ですよね。

ところが鈴木少年は、その中でたった一人、電車やバスを乗り継いで自分で通っていたといいます。

遠い会場のときは、行き方も自分で調べて動く。

今ならスマホでルートが一発で出ますが、小学生が一人で知らない場所へ向かうのは、けっこう心細かったはずです。

それでも彼は、その積み重ねの中で物おじしない性格を、いつのまにか手に入れていきました。

ここに、お母さんの教育のうまさが隠れている気がするのです。

ただ放り出すのではなく、自分で考えさせて、動かせて、「できた」という小さな自信を積ませていく。

年上の子に混じっても堂々としていられた彼の度胸は、こんな毎日から生まれたのではないでしょうか。

③自分のことは自分でやるというブレない自分軸の形成

そして三つ目です。

洗濯にしても移動にしても、すべての根っこにあったのが「自分のことは自分でやる」という、ブレない一本の軸でした。

お母さんは、サッカーの技術についてはほとんど口出ししなかったといいます。

その代わりに大事にしたのが、誠実さや、ストイックさや、感謝の気持ち。

つまり、人としての土台の部分だったんですね。

鈴木選手自身、インタビューでこんなふうに語っています。

「母の存在は大きい。小さい頃から自立を促されて、上の学年に混じっても物おじしなかった」

「自分がやるべきことを、どんな時でもやる。それを曲げない、ブレない」。

「自分を持っているね、と言われるのは褒め言葉だと思っている」。

2026年に受けたインタビューでも、あらためて母への感謝を口にしていて、その絆の深さがうかがえます。

この「自分軸」は、プロになっても、海を渡っても、消えませんでした。

たとえば、試合後のロッカールーム。

海外では、選手が使い終わったテープやボトルを床に散らかしていくのが、わりと普通の光景なんだそうです。

そんな中で鈴木選手は、誰に言われるでもなく、一人で黙々とゴミを拾うのだといいます。

正直、これには驚かされました。

やがてその姿を見たチームメイトやスタッフが、つられて一緒に片づけ始めた、なんてエピソードもあるほどです。

親がやってくれることを当たり前と思わない、その気持ちが、国境を越えて人を動かしているわけですね。

実家がある埼玉県さいたま市での原点

鈴木選手が生まれたのは、実はアメリカのニュージャージー州でした。

2002年8月のことです。

ところが生まれてすぐ、家族みんなで日本へ。

彼が本当の意味で「育った」のは、埼玉県さいたま市の浦和区という街でした。

サッカー好きの方なら、浦和と聞いてピンとくるかもしれませんね。

そう、あの浦和レッズの本拠地。

日本でも屈指の「サッカーの街」として知られる場所です。

子どもたちがレッズのユニフォームを着て、そこらじゅうでボールを蹴っている、そんな空気が当たり前に流れていたのでしょう。

鈴木少年がボールに触れ始めたのは、幼稚園のころでした。

きっかけをくれたのは、2歳上のお兄さんです。

最初は地元の浦和大東スポーツ少年団。

放課後に友達の打つシュートを受け止めるのが日課で、ゴールを守る楽しさにどんどんハマっていったといいます。

ちなみに、今でも出身のスポーツ少年団とは交流があられる様子で子供達を訪問する鈴木選手の写真が掲載されておりました。

子供達に夢を与え続ける姿、素敵ですよね!

画像引用:浦和大東サッカースポーツ少年団HP

画像引用:浦和大東サッカースポーツ少年団HP

 

やがて彼は、小学5年生で浦和レッズジュニアの1期生になります。

本人いわく「レッズを好きになったのは、家から近かったから」。

なんとも飾らない、彼らしい理由ですよね。

実家から練習場まで自転車で行ける距離だったというから、これ以上ない環境だったといえるでしょう。

ジュニアからジュニアユース、ユース、そしてトップチームへ。

一段ずつ階段をのぼって、16歳5ヶ月というクラブ史上最年少のプロ契約を勝ち取りました。

こうして並べてみると、鈴木選手の原点には、いつも家族がいたことに気づかされます。

ボールを蹴るきっかけをくれた、お兄さん。

人としての芯を育ててくれた、お母さん。

そして、体の才能の種をまいてくれた、ガーナ出身のお父さん。

ちなみに、その家族の絆は今も健在で、イタリアで暮らす彼のもとへお母さんが訪ねていったという話もあるくらいなんです。

アメリカで生まれ、多文化なルーツを持ちながらも、「日本で育ったので自分は日本人」と言い切る彼。

その言葉の奥には、この浦和での濃い日々が、しっかりと息づいているのでしょう。

派手な英才教育があったわけではありません。

自分の洗濯は自分でやって、一人で電車に乗って練習へ通う。

そんな地に足のついた、ごく普通の少年時代こそが、彼の強さの源だったのかもしれませんね。

今、鈴木選手はイタリア・セリエAのパルマで正守護神を務めています。

今シーズンは手のケガと手術という試練を乗り越え、見事にピッチへ戻って、無失点の勝利にも貢献しました。

そして2026年、北中米ワールドカップでは、日本のゴールを背負って立つ存在になろうとしています。

 
 
 
 
 
この投稿をInstagramで見る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

鈴木 彩艶 Zion Suzuki(@zionsuzuki)がシェアした投稿

異国の地で、孤独と向き合いながらも揺るがずに戦えるのは、あの埼玉の日々で授かった「自分軸」が、今も彼を内側から支えているからではないでしょうか。

鈴木彩艶というゴールキーパーの物語は、これからもきっと、私たちにたくさんの気づきを届けてくれるはずです。