スマホを開いたら、タイムラインが怒りで埋まっていました。

1歳の誕生日。

泣き叫ぶ赤ちゃんの顔が、ケーキにぐいぐい押しつけられている。

そんな短い動画が、あっという間に拡散されて、何百万回も見られていたんです。

「ひどい」「通報して」。

そんな言葉が、津波みたいに流れてきます。

 

私もまさか1歳の赤ちゃんにこんな事するなんて、もう絶句でした・・・。

見ていて胸がぎゅっと苦しくなったと同時に怒りも込み上げて、コメントを読みながらその親に対する強い反発の感情を確かめるように読みふけってしまいました。

でも、画面をスクロールしているうちに、ふと別の気持ちが顔を出しました。

泣いているあの子の顔が、批判されるたびに、また拡散されていく。

守りたいはずの赤ちゃんが、何度も何度も、知らない人の画面に映っていく。

気づいたら私の指は、シェアボタンの上で止まったまま、動かなくなっていました。

(※現在、もとの投稿アカウントはすでに削除されています。)

 

先に言っておきますね。

この記事は、あの動画を撮った人をかばうために書くものではありません

あのように赤ちゃんに対して手荒にケーキを押し付けるなど、許せることではありません。

三児を育てる母としても、普段保育士として園で働く身としても、あの母親には私は怒りしかありません。

ただそれだけではなくて。

「子どもを守りたい」という同じ気持ちのはずの私たちが、その守りたい子を、もう一度傷つけてはいないだろうか・・・。

そんな小さな引っかかりを言葉にしてみたいと思いましたので、お付き合いいただけタラと思います。

それでも私は、あの動画を「拡散」できなかった

私はあの動画を見て、批判している人たちと同じ側にいます。

子どもが嫌がっているのに、それを笑いの材料にしてしまう。

そこに強い抵抗を感じるという意味で、怒っている人たちと気持ちはまったく同じなのです。

6月5日・6日の時点でも「顔面ケーキ」はトレンドに上がり続け、通報を呼びかける声も相次いでいました。

それなのに、私はどうしても拡散の輪に入れませんでした。

まずは、その「入れなかった理由」から、ゆっくりほどいていきますね。

 

怒っている人たちと、私はたぶん同じ側

最初に、はっきりさせておきたいことがあります。

あの動画に怒った人たちは、決して心ない人ではありません。

むしろ逆です。

見ず知らずの赤ちゃんのために、本気で胸を痛めた、優しく正義感のある人たちなんですよね。

子どもが泣いて嫌がっているのに、大人が笑いながら同じことを繰り返す。

その光景に「おかしい」と声をあげるのは、人としてすごく当たり前の反応ですよね。

もし誰も何も感じなくなったら、そっちのほうが、よっぽど怖い社会ではないでしょうか。

保育士をしていると、子どもの「いやだ」という小さなサインが、どれだけ大事かを毎日のように思い知らされます。

その「いやだ」のサインが何なのかを毎回あれこれ状況を考えながら、その子が快適に過ごせるように最善を尽くします。

 

まだ言葉にできない子が、体をよじったり泣いたりして、必死に「やめて」を伝えている。

それを大人が笑い飛ばしてしまう。

あの動画に映っていたのは、まさに私からしたら(ほとんどの人にとっても)意味が分からない、ただただ怒りが湧いてくる映像でした。

 

なのに、指が止まったんです

ところが、いざ「私もひどいと思う」と発信しようとした瞬間、ハッとしました。

その投稿をするには、もう一度あの子の泣き顔を、自分のフォロワーに見せることになる

そう気づいたら、指がぴたっと止まってしまったんです。

よく考えると、ヘンな話なんですよね。

私たちは「この子がかわいそう」と言いながら、その言葉を広めるために、かわいそうだと思っている当の映像を、自分の手でさらに拡げている

怒りの声が大きくなるほど、泣いている赤ちゃんの顔は、より遠くへ、より多くの場所へ運ばれていく。

それはまるで、火事を消そうとして、燃えている薪を一本ずつ手渡ししているようなものではないでしょうか。

みんな善意で動いている。

なのに、炎はどんどん大きくなる。

そして、その真ん中にいるのは、何も分からないまま泣いていた、あの1歳の子なのです。

泣いている赤ちゃんから見た景色って、どんなだろう

私たちはこの騒動を、「ひどい親」と「かわいそうな赤ちゃん」という、わかりやすい構図で見がちです。

でも、いったん大人の感情から離れて、あの子の側に立ってみるとどうでしょう。

1歳の子は、自分が炎上していることも、誰かに守られていることも、何ひとつ知りません。

あの子はまだ、何ひとつ選べない

当たり前のことを、あえて書きます。

1歳の子は、動画を撮られることを選んでいません。

ネットにあげられることも、何百万人に見られることも、ましてや「炎上の主役」になることも、すべて望んでいないのです。

子どもというのは、いつだって「起きたことを選べない側」にいるんですよね。

どんな家に生まれるかも、どんな大人に囲まれるかも、自分では決められない。

今回のことだって、その子にとっては、まったく身に覚えのないところで勝手に始まって、勝手に大きくなっていった出来事なのです。

そう考えると、ちょっと気づくことがあります。

今みんなが交わしている議論の多くは、結局のところ、大人同士のものなんですよね。

親を責める人、文化の勘違いだとかばう人、その真ん中にいるはずの本人だけが、声を持っていない。

いちばん語られているのに、いちばん何も語れない存在。

それが、あの赤ちゃんの立場なのです。

十五年後、あの子が「自分」を検索する日

少し先の話をさせてください。

あの子が大きくなって、自分の名前やニックネームを、なにげなく検索する日が、いつか必ず来ます。

今の中学生や高校生が、当たり前にやっているように。

そのとき、もしあの動画や、それをめぐる山のような書き込みが、まだ残っていたら。

検索しただけで、過去の炎上がぜんぶよみがえってくる

本人はそこで初めて、自分が泣き叫んでいる姿が見世物にされて、知らない大人たちに「かわいそう」「虐待だ」と何万回も語られていた事実を知るわけです。

守ろうとしてくれた言葉さえ、本人にとっては、ただ「晒された記録」になってしまうのかもしれません。

ここに、この問題の根の深さがあると思っています。

親からの一度きりの行為(本当に酷すぎる)だけが、傷なのではありません。

そのあとに続いていった、拡散され、保存されて、語り尽くされたという「第二の出来事」が、本人の意思とは関係なく、ずっと残り続けてしまう。

守るための行動が、形を変えて、その子の未来に重しを乗せていく。

そんな構図になりかねないのです。

一度ついた足あとは、消えない

ここで、聞き慣れない言葉をひとつだけ。

「デジタルタトゥー」という言葉を、ご存じでしょうか。

一度ネットに刻まれた情報は、タトゥー(入れ墨)のように、そう簡単には消せずに残り続ける

そういう意味で使われる言葉です。

たとえ元の投稿が消されても、保存した人、転載した人、スクショを撮った人が、世界のどこかに無数にいます。

広がってしまった情報を、ぜんぶ回収する。

そんなことは、もう不可能なんですよね。

しかも厄介なことに、ネットの世界では「顔面ケーキの子」のような呼び名が、本人の名前とは別に、勝手にひとり歩きを始めます。

その子がどんな人に育って、何を好きになって、どんな夢を持っても。

検索の海の片隅には、泣いていた1歳のあの日が、何年も漂い続けるのかもしれません。

自分で選んだわけでもないラベルが、人生にぺたっと貼られてしまう。

正直、私はこれが、何より気がかりなのです。

すごく怖い事だと思いませんか?

「正義」が暴走すると、結局だれが傷つくのか

子どもを守りたい気持ちは、尊いものです。

これは何度でも言いたいのです。

でも、その気持ちが大きなうねりになって動き出したとき、思いもよらない方向に転がっていくことがあります。

今ネットで起きていることを、ちょっと冷静に眺めてみると、「守る」という名前のもとで、別の傷が生まれている場面が、いくつも見えてくるのです。

「特定」という、もう一つの暴力

炎上が大きくなると、ほぼ必ず始まることがあります。

「この投稿主は誰なんだ」という、身元の特定です。

  • 本名は。
  • 住んでいるのはどこ。
  • 家族は誰なのか。

ネットの集合知は、ときに探偵さながらの執念で、その人の輪郭をどんどん暴いていきます。

今回も、投稿した人だけでなく、まわりの家族の情報まで掘り起こされて、どんどん拡散されていったと言われています。

プライバシーの侵害ではないか、という心配の声も広がりました。

ここで一度、立ち止まって考えたいのです。

巻き込まれていくのは、結局その家庭の子どもであり、きょうだいであり、なんの関係もない親族なんですよね。

一人の大人の行いを罰したいという思いが、いつのまにか、その人とつながっているだけの無数の人の生活を、まとめて揺さぶってしまう。

そして真ん中には、やっぱりあの赤ちゃんがいます

親が特定されるということは、その子の顔も、名前も、暮らしまでが、世界に向かって開かれてしまうということでもあるのです。

守りたいと言いながら、その子の安全をいちばん危うくしているのが、私たち大人の「正義感」だとしたら。

これほど皮肉なことは、ないのではないでしょうか。

「らしい」が、いつのまにか「事実」になる

もうひとつ、炎上にはつきものの現象があります。

確かめようのない話が、次々と「事実」のように語られ始めることです。

今回も、最初のケーキ動画だけでは終わりませんでした。

「過去にこんな動画もあった」「あれもひどい」と、別の映像の話が次々と出てきたのです。

飲食店でお酒を口にさせたとか、お風呂で危ないことをしていた、とか。

もしそれが本当なら、たしかに見過ごせない話です。

ただ、ここがすごく大事なところなのですが。

その多くは、まだ誰かがきちんと裏を取ったわけでも、報道で確認されたわけでもありません。

「指摘されている」「疑惑が出ている」という段階のものが、たくさん混ざっているのです。

「らしい」は、口から口へ、画面から画面へと渡るうちに、語尾の「らしい」だけがぽろっと落ちて、「事実」の顔をして歩き始めます。

これは、本当に怖いことだと思います。

だって、もしその噂の一部が間違っていたとしても、いったん広まった「あの家庭はこういう人たちだ」という印象は、もう誰にも訂正できないのですから。

悪を叩きたい気持ちと、子どもを守りたい気持ちは、別もの

ここまで書いてきて、私の中で、ひとつはっきりしてきたことがあります。

「悪い行いを罰したい」気持ちと、「子どもを守りたい」気持ちは、よく似ているけれど、実は別ものだということです。

前者の矢印は、加害したとされる大人に向かいます。

後者の矢印は、傷ついた子どもに向かうはずです。

本当は同じ方向を向いていてほしいこの二つが、炎上の渦の中では、しょっちゅう食い違ってしまう。

 

親を徹底的に叩くことに夢中になるあまり、その足元で泣いている子のことが、すぽっと抜け落ちてしまうのです。

もし私たちのいちばん大事な目的が「あの子を守ること」なら。

本当に問うべきは、「どうやってこの親を懲らしめるか」ではなく、「どうすればあの子が、これ以上傷つかずにすむか」のほうなのではないでしょうか。

矢印の先を、もう一度、子ども自身に戻してあげたいのです。

じゃあ、本当に子どもを守るって、どうすること?

ここまで読んで、「じゃあ黙って見過ごせと言うの?」と感じた方も、いるかもしれません。

いえいえ、まったくそうではないのです。

気になることがあるなら、行動するのは、とても大事なこと。

ただ、その行動の形は、SNSで晒すこと以外にもあるんですよ、という話を、保育士の現場から見える景色としてお伝えしたいのです。

通報は、家庭を「終わらせる」道具ではない

「児相に通報を」という言葉、今回もたくさん飛び交いました。

でも、その通報が何のためにあるのか、意外と知られていない気がします。

児童相談所への連絡は、ある家庭を社会的に処刑するためのものではありません。

本来それは、困っているかもしれない子どもと家庭を見つけて、必要な支援につなぐための入り口なのです。

場合によっては保護が必要だと判断されることもありますが、多くは「この家庭、何か助けを必要としていないかな」を確かめるところから始まります。

だから、もし本気で心配なら。

何万人の前でその家庭を晒すよりも、しかるべき窓口に、静かに、淡々と相談を入れるほうが、ずっと子どものためになると考えられます

声を大きくすることと、子どもに支援を届けること。

これは、まったく別の作業なんですよね。

追い詰められた親の背中を、私は何度も見てきた

これは、誰か特定の人の話ではなく、私が現場で出会ってきた、たくさんの家庭の話として聞いてください。

子どもにきつく当たってしまう親って、必ずしも「生まれつき冷たい人」ではないのです。

むしろ、孤立して、疲れきって、誰にも頼れなくて、心の余裕をなくしてしまっている人が、すごく多い。

夜泣きで一睡もできない。

そばに頼れる人もいない。

「いい母親でいなきゃ」という重圧だけが、どんどん積み上がっていく。

そんな中で、ふっと判断を誤ってしまう。

もちろん、それで子どもを傷つけていい理由には、決してなりません。

でも、その背景にある「助けてと言えない孤独」を見ないまま、ただ石を投げ続けても、次に救われる子どもは、一人も増えないように思うのです。

現場で痛感してきたのは、追い詰められた親に必要なのは、さらなる非難ではないということ。

まずは一息つける場所と、責めずに話を聞いてくれる相手なんですよね。

それがあって初めて、その親は、子どもの「いやだ」に気づける余裕を、少しずつ取り戻していけるのかもしれません。

必要なのは、石ではなく、一本の手

だから私は、こう思うのです。

今回の件で本当に必要だったのは、その家庭めがけて投げつけられた何百万個の石ではなくて。

石を投げる人が一万人いても、子どもの暮らしは一ミリも良くなりません。

でも、事情を確かめて、支援につないで、見守る大人が一人でもいれば。

その子の明日は、確かに変わっていきます。

怒りのエネルギーは、本物です。

ただ、その向ける先を、ほんの少しだけずらしてみる。

叩く方向から、支える方向へ。

それだけで、私たちのやさしさは、ようやく子ども本人に届くようになるのではないかと思っています。

 

これ、「特別にひどい親」だけの話ではないのです

ここまでは、ある一つの炎上の話をしてきました。

でも、私がこの記事でいちばん伝えたいことは、もっと身近なところにあります。

今回のことを「どこか遠くの、特別にひどい誰かの話」で終わらせてしまうと、いちばん大事な気づきを、取りこぼしてしまう気がするのです。

ちょっとだけ、自分のこととして考えてみてくださいね。

あなたのスマホの中の、あの一枚

子どもの写真や動画を、SNSにあげたことがある。

そういう親御さん、きっと珍しくないですよね。

私自身も、わが子のかわいい瞬間を、つい誰かに見せたくなる気持ちは、痛いほどわかります。

「ひどい親」と「ふつうの親」の境目って、思っているよりずっと曖昧なのかもしれません。

今回の動画ほど極端ではなくても、泣き顔やおむつ姿、お風呂の様子を「かわいいから」と気軽に投稿すること。

これは、たくさんの家庭で、毎日のように起きています。

良かれと思って、愛情をこめて、その子の姿を世界に差し出している。

でも、それを「見せていい」と決めたのは、いつだって親であって、子ども本人ではないんですよね。

こういう、親が子どもの情報を共有する行為には、「シェアレンティング」という名前がついています。

シェア(共有)と、ペアレンティング(子育て)を合わせた言葉です。

遠くのおじいちゃんおばあちゃんと成長を分かち合える、といった良い面もたくさんあります。

でも同時に、その一枚が、子どもの同意なしに、ネットの海へ流れ出していく行為でもある。

今回の炎上は、その延長線上にある、いちばん極端な一例にすぎないのだと考えると。

急に、他人事ではなくなってきませんか。

子どもにも、「自分のことを決める権利」がある

最後に、ちょっとだけ大きな話を。

世界には「子どもの権利条約」という約束があって、その中には、子どもにもプライバシーがあること、自分に関わることに意見を持つ権利があること、が含まれています。

1歳の子に「これ、ネットにあげていい?」と聞いても、もちろん答えは返ってきません。

だからこそ、その子の代わりに、ほんの少しだけ立ち止まって考えてあげられるのは、いちばん近くにいる大人だけなのです。

「この子が大きくなったとき、これを見て、笑ってくれるかな。それとも、消したいと思うかな」。

その問いを、投稿ボタンを押す前に、一度だけ思い浮かべておく。

それだけで、守れるものが、ずいぶん変わってくる気がします。

子どもは、親の作品でも、再生数を稼ぐための道具でもありません。

これから自分の人生を歩いていく、一人の人間です。

そのことを、私たち大人が忘れずにいられるかどうか。

子供にも当たり前のように人格があり、人生がある。

「親の所有物ではない」という視点は忘れられがちな気がします。

おわりに ― 叩くのでも、見て見ぬふりでもなく

ここまで、長い話にお付き合いいただいて、ありがとうございました。

私はこの記事で、誰かをかばいたかったわけでも、怒っている人を責めたかったわけでもありません。

ただ、「子どもを守りたい」という同じ願いを持っているはずの私たちが、その願いのせいで、いちばん守りたい子をもう一度傷つけてしまう。

その悲しいすれ違いを、なんとか止められないかと、考え続けていただけなのです。

叩くのでもなく、かといって、見て見ぬふりをするのでもなく。

そのあいだに、ちゃんと第三の道があると、私は信じています。

気になることがあれば、晒すのではなく、しかるべき場所に静かに伝える。

孤立した家庭には、非難ではなく、手を差し伸べる。

そして自分自身も、子どもの姿をネットに出すとき、ほんの少しだけ、その子の未来を想像してみる。

一人ひとりの、その小さな選択の積み重ねが、めぐりめぐって、見知らぬ赤ちゃんを守ることにつながっていく。

私は、そう思うのです。

この騒動から数日たった今も、拡散された動画の断片は、ネットのどこかに残り続けています。

だからこそ、保育士として、そして一人の母として、私が心から願っているのは、たったひとつ。

 

あの子が、いつか自分の過去を検索したとき。

そこに残っているのが「晒された記録」ではなく、「ちゃんと守られた」という事実であってほしい。

そのために何ができるのか、これからもみなさんと一緒に、考えていけたらうれしいです。